沖縄を撮りながら、「沖縄」を撮ることから離れていく。
吉江淳が向かうのは、名所でも、出来事の中心でもない。住宅地を抜ける道、郊外の建物、ぽっかりと現れる空き地、はずれの小さな花壇。中心的ではない場所へ、どこかに入っていくように歩いていく。道を進み、また曲がり、時に行き止まりになりながら、ふいに何かに出会う。
人のいる光景はほとんどない。目の前にある風景を、すでに知っている意味や物語のなかに取り込むのではなく、自分とは切り離された外部として、いかに撮ることができるのか。歩き、見ることを重ねるうちに、沖縄の風景という輪郭さえほどけ、場所そのものが、捉えがたい深さをもって立ち現れる。風景の奥に堆積してきた時間や、いまは見えないものの気配が静かに立ち上がる。
吉江にとって沖縄は、何を撮るのかと同時に、何を撮らないのかを考え続ける場所でもあった。国家、政治、民族、慣習といった、沖縄をめぐる大きな物語を写真によって説明するのではなく、それらを知りながらなお、目の前にあるものと向き合うこと。写真家の側へ世界を引き寄せるのではなく、外部としてそこにあるものに出会うこと。
歩き、見て、ただ撮る。その繰り返しから生まれた写真は、「沖縄」を語るためのひとつの答えへと収斂することなく、見ることと撮ることのあいだにとどまり続ける。
中心からはずれ、行き止まりの先で出会った風景。その名もない場所の奥で、いくつもの時間が静かに重なっている。